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基本情報
- 名称
- 法輪寺
- 読み方
- ほうりんじ
- 別称
- 虚空蔵法輪寺 嵯峨虚空蔵(嵯峨の虚空蔵さん) 木上山法輪寺、木上山法林寺(貞観16年(874年)から)、木上山葛野井寺、木上山葛井寺(かずのいでら) 漆寺
- 所在地
- 〒616-0006
京都府京都市西京区嵐山虚空蔵山町16
- 参拝時間
- 9:00~16:00
- 参拝所要時間
- 約30分
- 参拝料
- 無料
- 御朱印
- あり
- 御朱印帳
- 電話番号
- 075-862-0013
- FAX
- 075-861-1830
- アクセス
- 阪急電車「嵐山」駅下車、徒歩約5分
市バス「阪急嵐山駅前」下車、徒歩約5分
詳細情報
- 御本尊
- 虚空蔵菩薩
- 山号
- 智福山
- 宗旨・宗派
- 真言宗五智教団
- 創建時代
- 和銅6年(713)
- 寺格
- 開山・開基
-
開山 行基
開基 元明天皇(勅願)
- 札所など
-
京都十三仏霊場第13番
日本三大虚空蔵
- 文化財
- 木造持国天・多聞天立像(重要文化財)
- ご由緒
-
今を去るおよそ1800年前、我が国は倭国とか、邪馬台国とか呼ばれ、西暦300年代漸く大陸の中国や朝鮮との文化交流が盛んになり始めました。
その頃既にこの現在の法輪寺寺域に三光明星尊をお奉りした「葛野井宮かずのいぐう」がありました。 秦の始皇帝の子孫、融通王の一族が産業、芸術の繁栄、安全守護の一族祖神として信仰しております「虚空蔵尊こくうぞうそん」と深い因縁のあるこの「葛野井宮」を尋ね求めてこの地へ渡来し、彼等伝来の農耕技術を生かした農業をはじめ製糸、染織など中国の工芸を励むようになりました。
かように彼等が移住しましてからは、中国から進んだ東洋の文化工芸を移入し発展させましたので、この地方の住民もその影響を受けて仕事を手伝い、この地はだんだんと文化工芸の中心となってきたのであります。
彼等中国から移住した一族は秦氏族と呼ばれ又彼等一族の守護繁栄の祖神として崇敬しております「葛野井宮」を中心としてますます発展することを祈り、その名をもとにしてこの広い地域を「葛野かずね」と呼ぶことになりました。
応神天皇の時代(350年〜450年頃)には文化をすすめる思召しから秦氏族を多く移住させ、この民族たちの技芸によりまして、地方民の生活は豊かに、そしてこの地方はだんだん開発されていきました。このありさまは「古事記」「日本書紀」の応神天皇の章にも天皇のおよろこびと国讃めのお歌が記されており、当時の秦氏族の発展、民家の栄えたありさまが明らかに推測することが出来ます。 奈良時代に入って元明げんみょう天皇の和銅6年(AD713年)、この古い由緒ある寺域に勅願により行基菩薩に命じて堂塔を建てられました。
その寺の名は「木上山葛井寺もくじょうざんかづのいでら」と呼ばれ、国家安穏あんのん、万民の繁栄と五穀豊穣、産業の興隆を祈る勅願所となされたのであります。 即ちこの葛井寺かづのいでらが現在の法輪寺の起源であり、行基菩薩を開基とし、古義眞言宗こぎしんごんしゅうに属します。以後歴代天皇の勅願所でありますと共に日本仏教の高祖、宗祖として尊ばれております勤操大徳ごんぞうたいとく:弘法大師の恩師、弘法大師こうぼうだいし、興教大師こうぎょうたいし、明恵上人みょうえしょうにん、日蓮上人にちれんしょうにんを始め各宗の祖師方はここに参篭さんろうして、大きな覚知さとりの霊験を受けられることになるのであります。
さて桓武かんむ天皇の時代(AD780年頃)になって、この葛野かづねの地はますます大きく富み栄え、所謂産業の中心地となってきました。そこでこのことも一つの理由で天皇は山城の長岡よりこの葛野の地域を都と定めて宮殿を創建され、延歴13年(AD794)年遷都して「平安京」とされました。即ち葛井寺 寺域は「葛野井宮」を中心に「葛野かづねの都」が生まれ、「平安の都」が創められ、以後明治元年東京遷都に至る一千有余年皇都としていよいよ栄え、日本の文化芸術学問の中心地として発展してまいったわけであります。
西暦800年頃、弘法大師の高弟で道昌僧正どうしょうそうしょうと云う立派な高僧が現れました。道昌僧正は承和年間(AD834年〜847年)勅願によって大堰川を修築し、橋を架け、船筏の便を開きました。その時架設された橋がのち法輪寺橋と呼ばれ、更に亀山上皇(AD1274年〜1287年)がこの橋を見て「くまなき月の渡るに似たり」として渡月橋と命名されたといいます。これが現在の渡月橋の始まりになります。道昌僧正はこの交通の便を開くと共に、下流にある桂、川岡、向日の数千町歩に及ぶ荒れ野原に河水を流して田畑を開拓し、そのおかげで農産物が豊穣、住民たちからは行基菩薩の再来と慕われ、喜びあったとのことです。 又この道昌僧正は、弘法大師から「虚空蔵菩薩の霊験ある相応の地は嵯峨葛井寺である」とのお示教おしえによって、大悲の願力を発起して、虚空蔵求聞持法百日間参篭修行をせられました。満願の日、「葛井」のこの霊地に、暁天、生身の虚空蔵菩薩を空中に感得、一木を彫して虚空蔵尊像を仕上げ、その木像を神護寺において弘法大師自らの供養を経て、この葛井寺に安置、お祀りするようになったと伝えられています。
その直後清和天皇の貞観10年(AD868年)葛井寺を「法輪寺」と改められました。
次いで貞観16年(AD874年)山腹をひらき、大いに堂の建物を改修、その後天慶年間(AD938年〜947年)に空也上人が参篭し、勧進によって新たに堂塔を修造したと伝えられております。
応仁元年(AD1467年)西軍畠山義就は東軍の筒井光宣を法輪寺の門前で迎撃し、その際建物の多くが類焼したと云われ、法輪寺も所謂応仁の乱の災禍を受けて、以后当分の間寺勢の衰退が続くこととなります。
慶長2年(AD1597年)後陽成天皇は法輪寺再興勧進の勅旨を下賜され、諸国から造営の浄財を募ると共に加賀前田家の帰依を得て堂を再建改築し、中世以来の荒廃した寺観は面目を一新し、「智福山」の勅号を賜って木上山を「智福山」と改め、慶長11年(AD1607年)九月に盛大な落慶法要を営まれました。茲ここに「智福山法輪寺」(通称嵯峨の虚空蔵さん)と今日のように呼ばれるようになったのであります。以后堂塔修理の際は朝廷より大勧進の勅旨を与えられることが例となり、幕末まで前後七回に及んだと云われています。
そして元治元年(AD1864年)七月蛤御門の変の際、長州藩の浪士が渡月橋を挟んで対岸の天龍寺に集結、十九日の戦闘で法輪寺の建物はことごとく灰燼に帰してしまいました。
その後現在の建物は、本堂を明治十七年(AD1884年)に再建し、客殿、玄関、回廊、庫裏、山門等順次竣工して大正三年(AD1914年)に、漸く往事の寺観を復興し今日に至っているのであります。
出典・引用 https://www.kokuzohourinji.com/hourinji.html 法輪寺ホームページ
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