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基本情報
- 名称
- 三室戸寺
- 読み方
- みむろとじ
- 別称
- 所在地
- 〒611-0013
京都府宇治市莵道滋賀谷21
- 参拝時間
- 4月〜10月:8時30分〜16時00分 11月〜3月:8時30分〜15時30分
拝観宝物館修理の為、令和6年度3月末まで拝観できません。
- 参拝所要時間
- 1時間 〜 1時間30分
- 参拝料
- 平常
大人500円
小人300円
2月18日~7月17日及び11月中
大人1,000円
小人500円
- 御朱印
- あり
- 御朱印帳
- 電話番号
- 0774-21-2067
- FAX
- ホームページ
- http://www.mimurotoji.com/
- アクセス
- 電車
京阪 三室戸駅下車、徒歩15分
JR宇治駅よりタクシー
自動車
京滋バイパス宇治東ICより3分
【ご注意】大阪方面よりは京滋バイパス宇治西ICを利用して下さい。
詳細情報
- 御本尊
- 千手観音菩薩
- 山号
- 明星山
- 宗旨・宗派
- 本山修験宗
- 創建時代
- 宝亀年間(770~781)
- 寺格
- 別格本山
- 開山・開基
-
開山 行表
開基 光仁天皇(勅願)
- 札所など
-
西国三十三所第10番
神仏霊場巡拝の道第124番(京都第44番)
- 文化財
- 木造阿弥陀如来及び両脇侍坐像・木造釈迦如来立像・木造毘沙門天立像(重要文化財)
- ご由緒
-
夜もすがら月をみむろとわけゆけば 宇治の川瀬にたつはしらなみ
の御詠歌できこえる、西国十番の観音霊場、明星山三室戸寺は、観音応現の霊地であり、光仁天皇勅願の精舎である。
今から約1200年前、宝亀元年(西暦770年)のこと、光仁天皇が宮中に毎夜金色の霊光がさし込むのを御覧になって、この奇瑞を大変お喜びになり、右少弁犬養に勅して、霊光の源を尋ねさせられた。
犬養は勅をうけ早速、宇治川の支流の志津川の渓流に沿って登って行くと、古樹がうっそうと生い茂る中に、水が青く澄んでいる清淵があり、そこは塵境を離れた幽寂の地で、流水の響きは煩悩の垢を洗う心地を起させたのである。
犬養が清淵に近ずくと、御丈、二丈余り、相好円満、光明赫々とした、千手観世音菩薩が、まぼろしのように、清淵の中から出現されたのを見た。犬養は随喜の涙を押え、掌を合せ厚く頂礼して、清淵に飛び入り、この御仏を抱き上げてみると、さきほどの尊容ではなく、御丈、一尺二寸の二臂の尊像と化していられた。
犬養は都に立ち帰り事の始終を天皇に奏上申し上げると、天皇の叡感殊の外深く、早速宮中に尊像をおむかえになつたが、その後、行表禅師を招き、御室をこの地に移して、この尊像を本尊として安置して御室戸寺と称するよう勅されたのである。
光仁天皇が御室戸寺を御建立以来、本尊の観世音菩薩は無比の尊像として勅封にされていたが、御子桓武天皇は延暦24年に尊像を開扉して大供養を営なまれ、白壇木をもって、御自ら最初出現の千手観世音菩薩像を二丈一尺に彫刻され、彼の正身の尊像を胎内に納めて、大悲閣を造立し帝都鎮護の御寺とされた。
これより以来、33年毎に勅許、院宣によって開扉大供養を営む慣例となったものである。 その後、寛平年間に、三井寺の開祖、智証大師が、当寺に留錫して大いに法幢をかかげ、寺門を中興し、又、花山法皇は離宮を当山に設けられ、観音霊場を巡拝された時には、当寺を第十番の札所に定められたのである。
長和年間には三条天皇が法華三昧堂を、又、白河天皇は常行三昧堂建立され又荘園をも寄進せられた。その後、堀川天皇は、住持、隆明大僧正に深く御帰依になり、伽藍を増修され、又、羅惹院本尊尊星王護摩料所として、武蔵国中茎郷領家職の官符を賜わった。
羅惹院は白河天皇の御願によって三井寺の寺中に建立された一院であった。
隆明大僧正は、初め、三井寺に住して長吏となり、天台宗寺内派を統御された高僧であるが、そこを辞して後、当寺に移りその時共に羅惹院を移転し、伝持の仏像、経典を悉く、ここに納められたのである。隆明大僧正は、御室戸の僧正と称せられてその高徳は普く天下に知られ、法幢は益々盛んになったので、白河法皇の皇子、静証法親王は当寺にお入りになり隆明大僧正を師として修習されたので、御室戸宮と号せられた。
当寺創建以来、光仁、花山、白河三帝の離宮になったため、この頃から、御の字を、三、に替え、三室戸寺と称するようになった。
白河法皇が、熊野参詣の際には、当寺に於て、17日間の護摩供修行がされたので、これ以来、熊野検校宮の入峰に際しては、17日間の御修行が佳例となったものである。
以上のように開創以来、歴代天皇の崇敬を集め、寺域も漸次拡張されて、伽藍坊舎が年を追って増加し、輪喚の美を極めたのであるが、後花園天皇の寛正3年12月13日、食堂より出火し、貝吹堂、観音堂、彼岸所、西塔院、常行堂、宝蔵と延焼し、大伽藍も悉く烏有に帰してしまつた。その際、桓武天皇御願の白檀木の大像は火災の中に消え失せたが、正身の本尊はじめ常行堂本尊の阿弥陀三尊、隆明大僧正念持の釈迦如来立像等の尊像は猛火を脱したのである。
後土御門天皇の文明14年、三井寺阿弥陀院の、壱阿、は観音堂再興の勅意を受けて、諸堂の再建にとりかかり、文明19年7月落慶し本尊開帳の大法会が厳修された。導師は、聖護院宮准三后道興大僧正であり寺門の龍象悉く集り、宮中からは勅使、柳原大納言が参向され、且又、将軍足利義尚も拝賀参列したのであった。
寛正元年炎上以来廃墟の内にあること28年に及んだが、ここに再び法幢が高くひるがえることとなったのである。
このようにして、再び寺運隆盛に向ったが、天正元年、織田信長が足利義昭と宇治槇島で兵火を交えた際、当寺の衆徒が将軍義昭に味方したのを恨み、その後、信長が天下の権を掌握した時に、寺領を悉く没収したので、これより寺運衰退に向ったが、寛永16年、道晃法親王によって復興せられた。
明和年間頃、堂宇が再び廃頽し、忍興和尚の時、改築を計画したが果すことができず、文化11年になって、法如和尚の力によって漸く本堂の改築が成就したのである。
これが現在の本堂で発願してから落成までに、三十有余年の歳月を費したものである。
以上のように幾多の興亡盛衰を繰返したが、光仁天皇の開創以来千有余年の間、上は皇室より下は広く庶民にいたるまで、私達の悩みの一切を必ずお救い下さる、大慈大悲の観世音菩薩の信仰の中心として、三室戸寺への尊崇は厚く続けられたのである。
出典・引用 https://www.mimurotoji.com/history/index.html 三室戸寺ホームページ
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