神呪寺

かんのうじ
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〒 662-0001
兵庫県 西宮市 甲山町25-1
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寺務所9:00~16:30 御堂は17時に閉堂
9:00〜16:00
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    マーク基本情報

    名称
    神呪寺
    読み方
    かんのうじ
    別称
    甲山大師 感應寺(旧称)
    所在地
    〒662-0001
    兵庫県西宮市甲山町25-1
    参拝時間
    寺務所9:00~16:30 御堂は17時に閉堂
    9:00〜16:00

    参拝所要時間
    参拝料
    御朱印
    あり
    御朱印帳
    あり
    電話番号
    マーク0798-72-1172
    FAX
    0798-72-1342
    ホームページ
    http://www.ne.jp/asahi/kabutoyama/kanno-ji/
    アクセス
    阪神バス鷲林寺線甲山大師下車徒歩1分
    SNS

    マーク詳細情報

    御本尊
    如意輪観音
    山号
    武庫山
    宗旨・宗派
    真言宗御室派
    創建時代
    天長4年(827)
    寺格
    別格本山
    開山・開基
    如意尼
    正子内親王
    札所など
    新西国三十三箇所第21番
    摂津国八十八箇所第75番
    摂津国三十三箇所第3番
    仏塔古寺十八尊第17番
    文化財
    木造如意輪観音坐像、木造聖観音立像、木造不動明王坐像、木造弘法大師坐像(重要文化財)
    仁王門(市指定有形文化財)
    ご由緒
    鎌倉時代末期の禅僧、虎関師錬の『元亨釈書』「如意尼伝」に神呪寺の開基について載っている。それによると、神呪寺は第53代淳和天皇の第四妃(後の如意尼)が開いたとする。一方、『帝王編年記』には、淳和天皇皇后の正子内親王が天長4年(827年)に橘氏公、三原春上の二人に命じて真言宗の寺院を造らせたとする。

    皇太子時代の淳和天皇は夢告に従い、四天王寺創建に伴って聖徳太子が開基した京都頂法寺(六角堂)にて、丹後国余佐郡香河(かご)村の娘と出会い、これを第四妃に迎えた。香河では小萩(こはぎ)という幼名が伝わり、この小萩=真名井御前をモデルとした小萩観音を祀る寺院がある。古代、丹後国は中央氏族とは別系統の氏族(安曇氏などの海人系氏族)の勢力圏であり、大王家に対し后妃を出す氏族であった。この余佐郡の娘、小萩は日下部氏の系統である可能性が高い。
    『元亨釈書』によれば、淳和天皇第四妃真名井御前=如意尼は、如意輪観音への信仰が厚く、念願であった出家を行うために天長5年(828年)にひそかに宮中を抜け、頂法寺(六角堂)で修行をし、その後今の西宮浜(御前浜)の浜南宮(現・西宮神社)から廣田神社、その神奈備山である甲山へと入っていった。この時、妃は空海の協力を仰ぎ、これより満3年間、神呪寺にて修行を行ったという。
    天長7年(830年)に空海は本尊として山頂の巨大な桜の木を妃の体の大きさに刻んで、如意輪観音像を作ったという。この如意輪観音像を本尊として、天長8年(831年)10月18日に本堂は落慶した。同日、妃は空海より剃髪を受けて僧名を如意尼とした。如意尼が出家する以前の名前は真井御前(まないごぜん)と称されていた。
    この時、如意尼と一緒に出家した二人の尼、如一と如円は和気清麻呂の孫娘であった。
    空海は海人系の氏族の出身だったといわれる。天長元年(823年)、空海は雨乞い争いで妃の水江浦島子の筐を借り受けて勝ちを得たという。また、神呪寺の鎮守は弁才天であるが、元亨釈書18巻にも登場するこの神とは六甲山系全体を所領とする廣田神社祭神、撞賢木厳魂天疎向津姫(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)またの名瀬織津姫のことであり、水を支配する神でもあり、水運に関係のある者は古来より信仰を深めてきた。
    鎌倉時代初期の寿永年間(1182年 - 1184年)に源頼朝が梶原景時を奉行として再興する。境内の近くには源頼朝の墓と伝えられている石塔がある。
    戦国時代には織田信長が荒木村重を攻めた有岡城の戦いに巻き込まれ、多くの堂塔が焼失している。また、文禄3年(1594年)には豊臣秀吉によって寺領の大半が没収された。
    享保4年(1719年)には諸堂が再興されている。
    当寺はこれまで真言宗御室派本山仁和寺の末寺であったが、宝暦13年(1763年)10月22日に延命寺から院号・氷律院を贈られ、河州延命寺派の末寺となった。しかし、寛政10年(1798年)6月に再び仁和寺末寺となる。
    太平洋戦争中の1942年(昭和17年)11月、金属類回収令により梵鐘が供出された。
    当初の寺領は淳和天皇より150町歩の寄進があり合わせて250町歩となったが、変遷を経て現在は境内地の20町歩となった。山号は「武庫山」(六甲山のこと)であったが、光玄大和尚が現在の「甲山」に変更している。
    神呪寺の住所は上記の通り甲山町であるが、これとは別に寺の南東約3km離れた地、東海道新幹線と阪急今津線の交差点付近に「神呪町」という地名が存在する。この地名はこの寺が中世に一時的に移転したことを示しているともいわれている。 出典・引用 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%91%AA%E5%AF%BA#%E3%81%9D%E3%81%AE%E4%BB%96 wikipedia
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