智積院

ちしゃくいん
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〒 605-0951
京都府 京都市 東山区東瓦町964東大路七条下る
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9:00~16:00
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    マーク基本情報

    名称
    智積院
    読み方
    ちしゃくいん
    別称
    総本山智積院
    所在地
    〒605-0951
    京都府京都市東山区東瓦町964東大路七条下る
    参拝時間
    9:00~16:00
    9:00~16:00
    御朱印受付9:00~16:00
    参拝所要時間
    約1時間
    参拝料
    【名勝庭園】
    一 般 300円 中高生 200円  小学生 100円
    【宝物館 ※令和5(2023)年4月4日(火)よりオープン】
    一 般500円 中高生300円 小学生200円
    ※団体割引(それぞれ20名以上は1名につき50円引き)
    ※小学生未満は無料で拝観いただけます。
    ※障害者手帳(身体障害者手帳・精神障害者手帳・療育手帳)を
    お持ちの方は受付で提示いただけましたら、
    ご本人様は無料で拝観いただけます(付添いの方は有料となります)。 
    御朱印
    あり
    御朱印帳
    あり
    電話番号
    マーク075-541-5361
    FAX
    ホームページ
    http://www.chisan.or.jp/
    アクセス
    電車・バスでお越しの方                                          JR京都駅よりバス10分、東山七条下車、市バス206系統、207系統、208系統
    京阪七条駅より徒歩約10分                                        お車でおこしの方
    名神高速道路 京都東IC 出口から約20分
    名神高速道路 京都南IC 出口から約25分
    阪神高速8号京都線 第二京阪道路鴨川西ICから約10分
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    マーク詳細情報

    御本尊
    金剛界大日如来
    山号
    五百佛山(いおぶさん)
    宗旨・宗派
    真言宗智山派
    創建時代
    慶長6年(1601年)
    寺格
    総本山
    開山・開基
    開山玄宥
    札所など
    真言宗十八本山第7番
    近畿三十六不動尊霊場第20番
    京都十三仏霊場第1番
    神仏霊場巡拝の道第120番(京都第40番)
    文化財
    大書院障壁画25面、松に草花図屏風、金剛経(国宝)
    絹本著色童子経曼荼羅図、絹本著色孔雀明王像、絹本著色阿弥陀浄土図ほか(重要文化財)
    庭園(国の名勝)
    ご由緒
    智積院の歴史は複雑で、紀州にあった大伝法院と、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松のために建てた祥雲寺という2つの寺が関係している。
    智積院は、もともと紀州根来山(ねごろさん、現在の和歌山県岩出市)大伝法院(根来寺)の塔頭であった。大伝法院は真言宗の僧覚鑁が大治5年(1130年)、高野山に創建した寺院だが、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、保延6年(1140年)、大伝法院を根来山に移して新義真言宗を打ち立てた。智積院は南北朝時代、この大伝法院の塔頭として、真憲坊長盛という僧が建立したもので、根来山内の学問所であった。
    近世に入って、根来山大伝法院は豊臣秀吉と対立し、天正13年(1585年)の根来攻めで、全山炎上した。当時の根来山には2,000もの堂舎があったという。当時、智積院の住職であった玄宥は、根来攻めの始まる前に弟子たちを引きつれて寺を出、高野山に逃れた。玄宥は、新義真言宗の法灯を守るため智積院の再興を志したが、念願がかなわないまま十数年が過ぎた。
    関ヶ原の戦いで徳川家康方が勝利した翌年の慶長6年(1601年)、家康は東山の豊国神社(豊臣秀吉が死後「豊国大明神」として祀られた神社)の付属寺院の土地建物を玄宥に与え、智積院はようやく復興した。さらに、三代目住職日誉の代、元和元年(1615年)に豊臣氏が滅び、隣接地にあった豊臣家ゆかりの禅寺・祥雲寺の寺地を与えられてさらに規模を拡大し、山号を現在も根来に名を残す山「五百佛山」、復興後の智積院の寺号を「根来寺」とした。
    祥雲寺は、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松(棄丸)の菩提のため、天正19年(1591年)、妙心寺の僧・南化玄興を開山に招いて建立した寺であった。現在、智積院の所蔵で国宝に指定されている長谷川等伯一派の障壁画は、この祥雲寺の客殿を飾っていたものであった。
    この客殿は天和2年(1682年)の火災で全焼しているが、障壁画は大部分が助け出され、現存している。現存の障壁画の一部に不自然な継ぎ目があるのは、火災から救出されて残った画面を継ぎ合わせたためと推定されている。
    近代に入って1947年にも火災があり、当時国宝に指定されていた宸殿の障壁画のうち16面が焼失した。この時焼けた講堂は1995年に再建された。講堂再建に先だって、1992年に発掘調査が実施されたが、その結果、祥雲寺客殿の遺構が検出され、日本でも最大規模の壮大な客殿建築であったことがあらためて裏付けられた。    出典・引用 https://hotokami.jp/area/kyoto/Hmptr/Hmptrty/Dypmm/3864/ ホトカミ
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