2026.05.08
こんにちは!萬福寺の裏山に住んでいる黄檗宗布教師会広報担当の裏山たぬきです。有り難くも昨年に引き続き巡縁さんで記事を書かせていただけることになりました。読者の皆さんが、ちょこっとホッとしたり、ハッっと気付いたりしながら楽しんで仏教に触れてもらえる機会となるよう今年も頑張ります!
裏山たぬき 合掌
近年、社会生活に「悩んでいる」というお悩みを多く聞きます。
その「悩み」は様々で、いくつもの問題が絡まった糸のようにがんじがらめになってしまい、どれも簡単には解決できないようなものが多いように感じます。
そこで今回は、こうすれば解決できる!ではなく、それらの問題をたぬきが思う「禅の考え方」で心の絡まった糸を少しほぐして気持ちを楽にしてみようと思います。

社会生活で難しいと感じる悩みの一つに「人間関係」があります。
「自分のしたことが相手に上手く伝わらない」
「相手の意見が理解できない」
など、相手とのズレがこの「悩みの種」になっているように感じます。
この「悩みの種」はすぐには「悩み」になりません。最初は「ん?」というぐらいの疑問になって、そこから時間が経って、芽が出て、成長してから自分にとっての「悩み」になります。
そもそも一人ひとりは別々の存在で、時として意見が違うことも感じ方が違うことも当たり前なのですが、いざ自分にその状況が起こるとこの「当たり前」が見えなくなっている場合が多いのではないでしょうか。
「自分と他人は違って当たり前なんだ」と思うことを「悩みの種」を成長させないスタートにしてみましょう!
ここで気を付けるポイントは「悩みの種」をすべて取り除こうとしないことです。
では、なぜ悩みの種をすべて取り除くという考え方が間違えているのでしょう。
それは、悩みの種が次から次へとやってくる中で、全部取り除かなければいけないという強迫観念や固定観念が取り除けなかった種の成長をさらに進めてしまい、逆にその観念が自分を苦しめるからです。
そもそも、そこまで完璧を最初から求めなくてもいいんじゃないでしょうか?えらい和尚さんたちでも悩みが無くなったなんていう人は聞いたことがありません。人は大なり小なり「悩み」を抱えています。
だから、「悩みの種」を無くすのではなく、出来るだけ成長させないことで「悩み」を軽くしましょう。
次に悩みを軽くするのはどうしたらいいのでしょうか。
仏教では「善因善果(ぜんいんぜんか)」という考え方があります。これは、「善い行いをすれば善い結果が訪れる」という考え方です。
これは、善いことを沢山行えば結果として自分に善いことが返ってくるということですから、沢山善いことを行えば自分にとってプラスになるわけです。
これがなんで「悩み」を軽くするのかというと、庭の花壇の例えで言うならば、花壇にお花の種を蒔いて育てました。すると花の芽も出ますが、周りには植えてもいない雑草たちの芽も出てきます。この雑草たちを放置しているとどうなるでしょう。どんどんと周りに広がってお花の芽が飲み込まれてしまい、折角のお花の芽も弱ってしまいます。
この花壇と同じで「善い行い」が「お花」で「悩み」が「雑草」なんです。「悩み」は次から次へと芽を出して、自分の「善い」部分を隠してしまいます。そして、増えて成長すると根がしっかりと張ってしまい抜くのもなかなか難しくなります。
しかし、お花の種を雑草が生えるところにどんどんと植えていけば、雑草の生える場所が無くなっていくでしょ。そう!これは「善い行い」で悩みを成長させない「善行の物量作戦」なんです!

とはいえ、「善い行い」って一体なんなの?と思う方もいると思います。
「善行(ぜんこう」というとなにか高尚なものに感じてしまうかもしれません。確かに仏教で言う「善行」とは様々な教えがあり、それら一つひとつを考えると難しくなってしまいますよね。
しかし、ご安心ください!そんなに難しく考える必要はありません。
ここで言う「善行」とは他人にとってプラスになることと考えてください。
自分にとってプラスではなく、他人にとってプラスになることを「善行」だと考えてみてください。そして、それは何も特別な行為でなくて大丈夫です!何でもない小さなことでも相手が喜ぶことをしましょう。
例えば「笑顔」。他人に対して、和やかな笑顔で接する。これだけでも素晴らしい「善行」なんです。この行為は「和顔施(わがんせ)」と言って、無財(むざい)の七施(しちせ)という仏教の教えにある七つの立派な善行の内の一つです。
別にこれに縛られることはありません。大切なのは小さなことでも自分が出来ることを行うことですから、何か特別なことをするのではなく、自分に出来ることを探しましょう。
こうやって聞くと中には、「見返りを求めて行うのは善行といわない」と感じたり、「打算的」に感じる人もいるかと思います。
確かに本来の善行とは見返りを求めない行いのことですので、今話しているのは「仏教本来の善行」ではないかもしれません。
しかし、これは「本来の善行へ向けた準備」なんです。
先にもお話したように、私たちは完璧ではありません。しかし、最初から完璧なものを行わなければいけないという「観念」に凝り固まってしまって、結局「第一歩」が踏み出しにくくなっているのではないでしょうか。
なにも最初から完璧である必要はありません。お釈迦様だって苦行に苦行を重ねて、苦行からでは悟ることが難しいと知ったのですから、私たちだって最初は多少打算的であっても良いんです。
だから、誰かに「褒められたい」や「認められたい」という気持ちがあっても大丈夫です。それが自分が他人に対して善い行いをする原動力になるのであれば、決して悪いことではありません。
ただ、より善い行いにするためには「見返りを求めない」ことは重要です。
これは黄檗山萬福寺の和尚さんから聞いた話ですが、修行僧は入堂すると指導者の和尚さんに「草履をきれいに揃えなさい」と厳しく指導されるそうです。
最初は、「なんで自分以外の物も揃えなきゃいけなんだ」とか「自分の分は自分ですればいいのに」と思っていたそうですが、ずっと意識して草履を揃えているうちに、ある時、無意識に草履を揃えている自分に気付いたそうです。昨日まで「誰だ!乱した奴は!」と思っていたのに、目の前に乱れた草履を見て、無意識に手が出て揃えている自分に気付いた時、
「あっ・・・これが無心なのかもしれない」と思ったそうです。
和尚さんは「ただ目の前に乱れた草履があったから」ただそれだけで、そこに「綺麗にしてやろう」とか「褒められたい」とかの感情はなく、素直に手が伸びた。「草履を揃えろ」厳しく指導された意味はこれだったんじゃないかって思ったそうです。

萬福寺|大雄宝殿
この話と同じで、笑顔でも最初は意識していたものが、そのうち自然に行えるようになるのではないでしょうか。
だから、例え今打算的な自分がいても気に病む必要はありません。
「いつかそうありたいと願いながら継続すること」が大切なんです。
人との関りに「これが正解」といえるものはありません。
時間が経って関係が変わることなんてよくあることです。
だからこそ、悩みをなくそうと頑張るよりも、善い種を蒔き続けることが大切です。
善行の「物量作戦」は派手なことではありません。小さな笑顔、小さな気配り、小さな一歩。それを積み重ねることで、気付けば心の花壇には花の方が多くなっていくのです。
今のあなたが未来のあなたの姿ではありません。
だから、出来ていないことを悩み過ぎずに、今出来る一歩を焦らずに踏み出していきましょう。その先に、きっと人との関りも善いものに変わって、それが自分の幸せに変わっていくのだと思います。
種は蒔くほどに、花が咲く。
たぬきは、そう信じています。
