映画&ドラマでも大注目!陰陽師・安倍晴明にまつわるパワースポットin京都

映画&ドラマでも大注目!陰陽師・安倍晴明にまつわるパワースポットin京都

2024.06.02

今改めて、安倍晴明がアツい! 

映画「陰陽師0」や大河ドラマ「光る君へ」の登場で再び注目されている安倍晴明。不思議なエピソードはよく聞くけれど、実際にどんな人だったのか知らない方も多いのではないでしょうか。そこで今回は、陰陽師・安倍晴明の生涯やそのエピソード、筆者が京都を旅して知った秘密の新名所など、安倍晴明にまつわる京都のパワースポットについて詳しくご紹介します。 

 

安倍晴明ってどんな人? 

陰陽師と聞くと、真っ先に名前が上がるのが「安倍晴明」。一体どんな人物だったのでしょうか。まずは、陰陽師とは何か、そして安倍晴明の生涯とエピソードをご紹介します。 

 

そもそも陰陽師とは 

陰陽道

陰陽師は、律令制において天皇の補助や朝廷の業務全般を担う中務省のうち、陰陽寮に属する官吏が与えられた官職のことです。陰陽寮とは、飛鳥時代に天武天皇によって設置されたと言われている、歴史のある公的機関。中国から入ってきた陰陽五行説を基礎として占術や祈祷を行う他、天文学や易学、暦や算術、果ては建設など、当時の最先端の学問を管理する部署であり、その官吏たちは今でいえばエリート国家公務員でしょう。その中でも陰陽師は、占筮や地相のスペシャリストが任命されていました。 

ちなみに、陰陽寮などと言われると大昔の話のように思われるかもしれませんが、明治2年に最後の陰陽寮トップが亡くなるまで存在していたそうです。 

 

平安のファンタジーヒーロー?安倍晴明とは 

安倍晴明が陰陽道のキャリアをスタートしたのは、15~16歳くらいではと言われています。当時の陰陽寮の勢力を占めていた賀茂一族の有力者、賀茂忠行に弟子入りし、わずか4年程で膨大な陰陽術をマスターして陰陽寮に入ったという伝承もあるそうです。このような天才・安倍晴明に伝わるエピソードは、かなりファンタジックで幻想的なものが多数あります。しかし、実際にはどんな人だったのでしょうか。 

 

お母さんは信太の森の白狐!? 

白狐

安倍晴明誕生の定番ストーリーといえば、母親が白狐だったというものです。大阪の阿倍野区で生まれた説が有力ではありますが、茨城県の筑西や滋賀県の大津、奈良県の桜井や香川県の高松など、多数の生誕地伝説が残っていますが、実際に生まれた場所などははっきりしていません。 

 

母親が白狐と言われるエピソードは、古くは陰陽道書『簠簋内伝(ほきないでん)』の注釈書「簠簋抄」に記載されたことが当初と言われています。広く庶民に知られるようになったのは、江戸時代の浄瑠璃作品「蘆屋道満大内鑑」からでしょう。 

 

晴明の父である安倍保名が大阪・信太で狐を助け、その化身である女性・葛の葉と結婚して晴明が生まれます。しかし、葛の葉はその正体が狐だと見破られると、 

恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉 

という歌と共に幼い晴明を残し、森に帰っていくというストーリー。 

 

この話は全国的に大ヒット、歌舞伎などでも演じられるようになり、晴明の母=白狐説が広く知られるようになりました。 

 

出世は遅いが、陰陽師として信頼されてた晴明 

平安中期イメージ画像

陰陽師として数々のエピソードが残る晴明ですが、その出世は意外と遅かったようです。晴明は40歳の頃にようやく陰陽師となり、その後陰陽少属という役職を経て、51〜60歳頃に天文博士になったと言われています。陰陽寮の長官である陰陽頭(おんみょうのかみ)になることはなかったものの、村上天皇や花山天皇は晴明を高く評価しており、彼の位階は陰陽頭よりも上であったそうです。 

特に一条天皇は、晴明の才能を信頼し、彼を陰陽師として重用しました。晴明は天皇の側近として、多くの占いや儀式に参加し、その知識と技術で天皇を支えたと伝わります。また、時の権力者である藤原道長が記した日記『御堂関白記』にその名前が記されているなど、晴明が中央政府から篤い信頼を得ていたことが伺えます。

安倍家は晴明によって名声を高め、晴明の師であった賀茂家と並んで陰陽道での地位を確立しました。 

 

有名になったのは死後?式神使いとして物語に登場 

安倍晴明が活躍した時代は、紫式部や清少納言が活躍した平安中期でした。しかし、晴明のエピソードが広く知られるようになったのは、彼の死後、平安末期から鎌倉時代にかけてのことです。彼の名前は『大鏡』や『今昔物語集』の説話集に登場し、不思議なエピソードとともに語られるようになりました。『平安物語』や『宇治拾遺物語』では、晴明の活躍が超能力者のように描かれます。さらに、江戸時代には、『蘆屋道満大内鑑』で晴明誕生の伝説を元にした物語が上演され、大ヒットとなりました。 

そして現代においても、陰陽師・安倍晴明は主人公として、または名脇役として、数々の物語で今なお活躍しています。

 

いざ、安倍晴明にまつわるパワースポットへ!  

安倍晴明にまつわるスポットは、生誕の地と呼ばれる場所や、陰陽術を使って怪異と対決した場所など、全国にたくさんあります。その中でも今回は、京都にある安倍晴明に縁のあるパワースポットをご紹介します。 

 

晴明にまつわると言えばココ!屋敷跡にある晴明神社 

京都晴明神社

晴明神社は、安倍晴明の屋敷があったとされる場所に鎮座する神社です。晴明が亡くなった時、一条天皇の命によって創建されたと言われています。かつては現在よりもかなり大きな敷地を持っていましたが、度重なる戦火や豊臣秀吉の都市造営によって縮小されました。しかし、式年祭のたびに氏子の手によって整備や改修が行われ、2003年には鎮座千年祭が開催されました。現代でも多くの晴明ファンが参拝に訪れています。 

 

 

魅力あふれる境内で安倍晴明ワールドに浸る 

境内には、晴明に縁のあるパワースポットがたくさんあります。以前の一条戻橋に実際に使われていた材料を使って再現された一条戻橋や、晴明が使役していたと言われる式神の像、そして念力によって水が湧き出したとされる井戸などがあります。まさに晴明ワールドにどっぷり浸ることができるスポットです。 

 

 

新名所?秘密のパワースポット「星のひかり」とは? 

京都晴明神社二の鳥居

晴明神社には、最近ひそかに話題になっている、秘密のパワースポットがあります。その名も「星のひかり」。筆者が参拝した際、どこからともなく現れた地元の方だという男性が教えてくれました。天気や季節などの条件が揃った時、二の鳥居の前に五芒星が浮かび上がります。ここに自分の体を入れると、運気がアップするそうです!新たなパワースポット、参拝後にぜひ立ち寄ってみてください。 

 

 

式神が住んでいた? すぐ近くの「一条戻橋」も要チェック! 

境内にミニチュアがある一条戻橋ですが、現在の一条戻り橋は大通りをはさんで反対側にあります。晴明が使役していたとされる式神が住んでいたり、亡くなった父親を復活させたり、また、式神や呪術を用いて橋の架け替えを行ったなど、晴明にまつわる伝説が数多く残る一条戻橋。渡辺綱という平安中期の武将が、鬼が化けた美女に出会い退治したという「平家物語 剣巻(つるぎのまき)」の逸話も有名です。現在でもパワースポットとして知られ、失ったものを戻してくれる力があるそうですよ。  

 

 

「 京都ブライトンホテル」のラウンジバーでカクテルを 

晴明神社から約1kmの場所に位置する京都ブライトンホテルは、かつて安倍晴明の屋敷跡であったとされています。ファンの間では、このホテルに滞在することでパワーをチャージできると有名です。また、このホテルのラウンジバーには、晴明と相棒であった源博雅をイメージしたカクテル「セイメイ」と「ヒロマサ」がいただけます。大人の方はぜひお試しください。 

 

晴明復活の印判がある!真如堂 

真如堂は平安時代中期に建立された天台宗の寺院です。この寺院は、一条天皇の生母である詮子を安置したことから始まり、後には不断念仏堂として庶民からの信仰を集めました。 

真如堂には、安倍晴明が一度亡くなって復活した際に閻魔大王から授かったとされる金印や、晴明の念持仏とされる不動明王像が安置されています。 

 

閻魔大王にもらった五芒星の金印 

安倍晴明が不慮の死を迎え、閻魔大王による裁判を受けた時のこと。何とそこに不動明王が現れて、晴明の助命を願ったのだとか!すると閻魔大王は願いを叶え、晴明に決定往生の秘印である五行之印を与えて晴明を復活させ、晴明はその後85歳まで生きたそうです。 

真如堂には、晴明の復活を願った不動明王の像が安置されていて、その様子を描いた掛軸や、復活の際にいただいたという御朱印が展示されています。  

 

 

殺生石で作られた地蔵菩薩!?子孫も大活躍! 

真如堂の本堂に向かう途中、殺生石鎌倉地蔵というお地蔵様が祀られています。 

鳥羽上皇の時代、玉藻の前という女官が上皇に寵愛を受けていました。しかし、陰陽師である安倍泰親が、この女官が狐の化け物であることを見破ります。このお話に出て来る陰陽師・安倍泰親こそ、安倍晴明の子孫!玉藻の前は逃れた先で退治されましたが、その魂が殺生石となってしまい、近づく生物を殺してしまうようになりました。禅僧がその石を浄化して3つに割り、その1つに地蔵菩薩像を刻んで鎌倉に安置しました。江戸時代には、この地蔵を信仰していた甲良豊後守によって現在の地に遷座されたとされています。 

 

晴明の力を見せつける舞台となった「遍照寺」 

広沢山遍照寺

遍照寺は、平安時代中期に建立された天台宗の寺院です。宇多天皇の孫である寛朝僧正によって、広沢池畔にあった山荘を寺院として設立されました。応仁の乱の際に荒廃しましたが、江戸時代に入って現在のように再建されたとされています。 

 

葉っぱ1枚でカエルを殺した!?陰陽師 のスゴ技伝説が残る 

かえる

晴明の不思議な力の1つに、紙や葉っぱなどに呪力を込めて生き物のように操るというものがあります。その有名なエピソードの舞台になったのが、こちらの遍照寺です。ある日、公達たちが晴明に対し、「式神で人を殺すことができるのか」とからかいました。すると晴明は、「人は簡単に殺せませんが、虫なら簡単に殺すことができます」と答えます。すると公達は庭にいた蛙を指し「あれを殺してみてください」とせがみます。晴明は仕方なく葉っぱをつかむと、呪力を込めて蛙に投げます。すると、葉に当たった蛙は、ペチャンコにつぶれてしまい、公達はその力のすごさに震えあがったそうです。この蛙がいたのが、現代の遍照寺にある広沢池です。2001年に公開された映画「陰陽師」にも登場する有名なエピソードで、「今昔物語集24巻」に収録されています。 

 

源氏物語のモデル?今も変わらぬ仏様に会いに行こう 

晴明が登場したことでも話題の大河ドラマ「光る君へ」は、源氏物語の作者である紫式部の生涯が描かれています。遍照寺ではこの源氏物語のモデルになった事件が起こったことでも有名です。村上天皇の息子・具平親王が大顔という身分の低い女性とお忍びで遍照寺をお月見で訪れた際、大顔が突然物の怪にとりつかれて亡くなりました。 

紫式部はこの物語をベースに、2人の貴人から思いを寄せられた身分違いの女性が、生霊にとりつかれて命を落とすという悲恋「夕顔」を書き上げました。 

その後、遍照寺は応仁の乱などによって壊滅的な被害を受けましたが、本尊の十一面観音菩薩立像と赤不動明王坐像は創建当時のまま残されています。 

 

まとめ 

安倍晴明は、彼の不思議な力や占術の才能だけでなく、彼が日本の歴史や文化に与えた影響も含め、私たちを惹きつけ続けてきました。彼の逸話や伝説は、時代を超えて語り継がれ、現代の小説や映画などの作品にも度々登場します。「安倍晴明」という人物像は、実際にどのような人物だったかということよりも、人の心を捉える魅力ある存在としてこれからも多くの作品で描かれることでしょう。 

京都には晴明ゆかりのスポットが数多くあり、逸話や伝説に想いを馳せることができます。観光シーズンには混雑が予想されますが、今回の記事をぜひ参考にしていただき、晴明の魅力を追体験しながら、京都の歴史や文化を堪能する旅を楽しんでみてはいかがでしょうか? 

 

ページトップ