2026.08.28
青森県の下北半島にある、霊場・恐山。
日本三大霊場のひとつに数えられ、「死者の集まる山」として古くから人々に畏れられ、また慕われてきた場所です。
今回、巡縁では恐山菩提寺を訪れ、院代(住職代理)を務められる南直哉(みなみじきさい)先生にお話をうかがう機会をいただきました。
南先生は1984年に曹洞宗で出家得度、大本山永平寺で約20年にわたり修行生活を送られたのち、2005年から恐山菩提寺で「院代」として務めていらっしゃいます。
また、『恐山 死者のいる場所』をはじめとした、数多くの著書でも知られており、今年から巡縁でコラム寄稿もいただいている、現代日本を代表する禅僧のおひとりです。
「死」という重いテーマながらも、お話は意外なことに爆笑する場面も多く、終始興味深い内容でした。
「死者のいる場所」と言われる恐山を長きにわたって見つめてきた南先生に、この恐山という場所と、「死」について、詳しくお話を伺いました。

1958年長野県生まれ。曹洞宗僧侶として大本山永平寺で約20年修行した後、2005年より霊場恐山菩提寺院代に就任。多くの参拝者と向き合いながら、仏教や「生と死」をテーマに執筆・講演活動も精力的に行われています。
冒頭、南先生から、突然そんな質問を受けました。
果たして、何と答えるのが正解なのでしょうか。
迷っている我々に対して、南先生は答えました。
拍子抜けするような言葉に、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている私たちを見て、先生は笑いながら続けます。
そうですね、と答えようとすると、先生は再び笑います。
死者に対する数多くの著書を持ち、日本で死者に最も近い場所の院代を務める先生へのインタビューは、こんなやり取りから始まりました。

南直哉先生|恐山 極楽浜にて撮影
恐山という霊場は、一体どんな場所なのでしょうか。
そこには、「日常」と「日常から一番遠い、死というもの」が関係していそうです。
「普段我々は、生活するために働いているじゃないですか。それが、生きてることの前提でしょう。
すると死と死者っていうのは、その反対にあるもので、視界にあっちゃいけない。だから、日常と一番遠いのは、死と死者なんですよ」
なるほど。確かに、私たちは日常生活の中で「死」について考えることを、無意識のうちに避けることで、生きている気がします。
「ところが、我々が今生きてるということは、膨大な死者の上に立ってる。つまり、死と死者というのは、決定的な存在なんですよ。
けれど、普段の生活ではその上に蓋をして、見ないふりをして過ごしている。だからこそ、その“下から来る圧力”を、どこかで解放できる場所が必要になる。
それが、霊場なのです」
青森市内から、車で約2時間半。
市街地から山道へ入り、曲がりくねった道をひたすら走っていきます。恐山は、決して行きやすいと言える場所ではありません。
「恐山には、全国から人が来ます。今日来ている人の中には福岡から来たという人もいましたが、一番遠くは沖縄から来ている人もいます。
それに、海外からも来る。ヨーロッパなんて、まもなく来ない国がなくなるのじゃないかな?」
と語る南先生。なぜ人は、わざわざこんな場所まで足を運ぶのでしょうか。

恐山街道(青森県道4号むつ恐山公園大畑線)の看板|恐山冷水近く
「霊場というのは、あまり近くてはいけない。すぐ行けるところ、そう簡単にたどり着くようなところじゃダメ。
かといって、行けないところであってもならない。行けるけど、行くのが大変なところ。これが霊場。
そして、霊場は、生活感が乏しい場所でなければならない」
霊場は、たどり着くまでの「距離」と「時間」も、重要だというのです。簡単には行けない場所だからこそ、人はそこへ向かう間、さまざまな思いを抱えながら向かうことになる。その時間もまた、霊場という場所に行く意味があるそうです。
恐山は決して近くもなく、かといって遠すぎるわけではありません。まさに、先生のおっしゃる霊場として理想的な場所に当たります。
そして、たどり着いたこの場所には、見事に生活感がありませんでした。
絶えず漂う硫黄のにおい。岩の間から湧き出る水蒸気。カラカラと音を立てて回る無数の風車。そして、恐ろしいほどに美しい湖。
この湖もまた、死を感じさせる場所だという話になりました。
恐山には、宇曽利湖(うそりこ)という大変美しい湖があります。
写真で見た時には「キレイな場所だな」程度にしか思っていませんでしたが、実際に足を運んでみると、写真では伝わらないあまりの美しさに驚愕したほどです。
透明度が高い湖は、真ん中が大きくくぼんだカルデラ湖で、天気や風、その日の空の色などで表情が毎日変わるそうです。
実際、我々が到着した初日は、淡い緑から深い緑色のグラデーションに曇天がわずかに映る波打つ湖でしたが、翌日の風のない湖には、対岸の山と森がさかさまに映り、晴れた空と雲がエメラルドグリーンの湖面に輝くという、何とも言えない絶景でした。
この湖のほとりに行った時、南先生は「ここは死の湖だ」と仰いました。
「この湖には、ほとんど生き物がいないんですよ。汽水域と交わるところに、ウグイが少し住んでいるだけ。だから、見方によっては、死の湖なんです。
生物が出す老廃物がないから、異常に澄んでいる。この湖を見ていると、吸い込まれそうになるよね」
確かに、湖の岸辺に座っていると、時がたつのを忘れてしまうほどの心地よさ。つい、水の中にざぶざぶと入ってしまいたいという気持ちが理解できます。しかし、この「吸い込まれる感覚」は、時には危険なものだそうです。

南先生の後ろ姿|恐山 極楽浜
以前、ある男性が極楽浜のほとりに坐って、湖をじっと眺めていたそうです。
「6時間くらいいたかな。ここは長い時間その場から動かないって人がたまにいるんだけど、あまりに長いし大丈夫かな、と心配していたんですよ。
そしたらしばらくして、何とずぶ濡れの男性が湖の浜辺をうろうろしていると、参拝の人が知らせに来たの」
何とその男性、「歩いて渡れそうな気がした」と、湖に向かって歩き出してしまったそうです!
最初は浅い砂浜が続く宇曽利湖ですが、急に深くなって、男性もドボンと深みにはまってしまったそう。必死に砂底に手をつきながら、なんとか這い上がってきたようですが、湖の水は強い酸性のため…
(先生はうっかり温泉の水が目に入ってしまって大変だったそうです…)
幸い男性は命に別状はなかったそうですが、美しい湖に吸い寄せられると大変なことになるのですね。
その男性の話をしている時、先生がぽつりとおっしゃいました。
まさに、死とはそういうものかもしれません。死に近づいているとき、当の本人は、それが死だとわからないまま踏み込んでいく。
死の湖と呼ばれる宇曽利湖でのエピソードは、ある意味でそれを体現している場所なのかもと感じました。
なお、湖への立ち入りは当然禁止されています。ご注意ください。

「死の湖」宇曽利湖・強い酸性のため限られた生物しか生息できない
ところで、恐山に伝わる風習のひとつに、亡くなった人の名前を湖に向かって叫ぶ「魂呼び」というものがあるそうです。
この湖の向こう側は、「極楽浄土」があると言われていて、もう会えなくなった人を呼ぶと、浄土にいる大切な人に届くのだそう。
先生が、ある参拝者のグループを案内したときのこと。「ここで懐かしい人の名前を叫ぶと、浄土にいるその人に届くんですよ」と伝えたそうです。
最初は戸惑っていましたが、中のひとりが口火を切って名前を呼びました。すると、同行者たちが次々と声をあげ始め、ついには全員が絶叫しながら号泣しはじめたといいます。
「一人が叫ぶとね、次から次へと叫びだすんですよ。『おばあちゃん!』とか、『お父さん!』とか。
そのうち、泣き出す人がいて。すると、つられてみんな叫びだして、その声が止まらないの」
声は湖面に反響し、独特の響きとなって辺りに広がります。我々も到着した日に、不思議な呼び声を聞きました。今思えば、それは誰かが、もう会えなくなった誰かを呼ぶ声だったのでしょう。
実はここで叫ぶ人は、男性の方が多いそうです。
普段の生活の中では決して口にできない、あるいは口にする機会すらない名前を、ここでは誰に憚ることもなく、大声で叫ぶことができる。
「普段、生活をするためには、死と死者に対する思いを抑圧せざるを得ないんですよ。特に男性は、そんな思いを表に出せる場所がない。
それが霊場に来ると、この抑圧から解放されるので、叫ぶんでしょうね。そんな場所は、霊場以外ないんです」
魂呼びは恐山だけのものではなく、山や海、洞窟に向かって行う土地もあるそうです。
けれど恐山では、それが地獄から極楽へつながる湖という独特の地形。だからこそ、思わず死者を呼んでしまうのかもしれません。
美しい湖に見とれていると、ふと対岸から誰かが手を振っているかのような気がしました。

宇曽利湖|この湖の向こう側に「極楽浄土」があるといわれる
恐山には「お地蔵さま」「手拭い」をはじめ、いくつもの供養の風習が残っています。
その由来をたずねると、南先生は古事記に登場する「黄泉の国」の話をしてくださいました。
「神話や古事記には、死者の国である「黄泉の国」が出てきます。特徴的なのは、死者の国と生者の国は、トンネルで繋がってるんですよ。
これは日本独特の“アニミズム”的考え方なんです。死が生と断絶しない。生きることと地続きになっちゃってる」
「イザナギとイザナミの神話で、亡き妻を恋しく思ったイザナギが、トンネルを通って黄泉の国を訪ねる。
ならば、イザナミは『変わり果てた姿』にはなってるけど、死んではいない。生と死の区別がつかない。」
生と死のあいだ、はっきりとした断絶を設けない。死者は完全にいなくなってしまうのではなく、どこかで今もこちらとつながっている…
恐山という場所が持つ独特の安らぎや、「懐かしさ」を覚える参拝者が多いという理由は、こうした日本人の心の奥底に流れるアニミスティックな死生観と、深く結びついているからでしょうか。

恐山 菩提寺|地獄めぐりの光景
インタビューの終盤で、人間関係や生き方についての話をしていた時に、南先生がふと漏らした一言が、強く印象に残りました。
損得を抜きにして、ただその人がそこにいてくれることが嬉しい。そう思える関係を、人生の中でどれだけ持てるか。それは決して簡単なことではなく、多くは「つらい経験や苦しい経験を分け合った」関係の中からしか生まれないのだと南先生は言います。
死を見つめることは、同時に、どう生きるか、誰とどう関わって生きていくかを見つめ直すことにつながっているのかもしれません。
恐山に訪れる前、どれほど寂しく恐ろしい場所だろうか、と想像していました。ところが、実際に訪れた恐山は、全く印象が違いました。明るく、美しく、そしてどこか懐かしい。
そう話すと、南先生は、「みんなそう言うんだよ」
と笑いました。入り口から硫黄のにおいがして、水蒸気が噴き出る岩場を歩き、地獄めぐりをして、三途の川を渡って進めば、美しい湖が見える。
来る人によっては死者を訪ねる場所であり、また別の人によっては自分の死と向き合う場所。ただ、観光地として訪れても興味深い場所でもある。不思議な霊場、それが恐山でした。
私にも、また会いたいと思う大切な人がたくさんいます。しかし、日常生活でいつもその人たちのことを思っていると、生きていくのは難しい。恐山という霊場は、そんな人たちのことを心ゆくまで思い出し、そしてまたその名を呼んでも良い、特別な場所でした。
もし、もう会えない誰かに会いたくなったら、その人の名前を呼びたくなったら。ぜひ一度、訪れてみてください。

Ryo
趣味は寺社仏閣と国内旅行。旅行手配の手際のよさから、周囲の旅行プランナー役を担うことも。Bリーグ観戦、全国のスターバックス巡りも欠かせない。日本仏教検定1級。