元巫女てくてく小噺【華と苦が隣合せの夢世界・遊郭吉原】
2024.12.07
投込寺というのをお聞きになったことは有るでしょうか?
私は幼い頃から時代劇が好きだったので子供の頃から存在は知っておりました。江戸には昔「吉原遊郭」という場所が有り、遊女と呼ばれる方々がいらっしゃいました。
因みに元々は日本橋に有った吉原。明暦の大火後に浅草に移転し「新吉原」という名称になりましたが、略して「吉原」となり現在「吉原」と言えば浅草のイメージしかない方が大半かと思います。
ご存知ない方の為に端的に説明しますと男性相手に夢と身体を売る仕事をされていた方達です。
江戸と申しましたが実はそんなに大昔のことでもなく完全に幕を下ろしたのは昭和31年(1956年)つまり68年前。今の70代の方達か子供の頃には下火になったとはいえ存在していたのです。
投込寺でも最高位(を保った)花魁 若紫
通称、投込寺と呼ばれている浄閑寺は亡くなった遊女たちが文字通り投げ込まれ葬られたという話が有ります。
ただし素裸にされ荒菰に巻かれ投げ込まれたのは吉原の掟を破った者のみで普通に亡くなった遊女は、こちらに葬られるとしても丁寧に扱われていたという話も有ります。そもそもは安政の大地震の混乱の最中、やむにやまれぬ状況の中遊女の亡骸を・・・というのが始まりで「投込寺」有りきで始まった場所ではないようです。
現在は「新吉原総霊塔」が建てられ吉原で働いていた方々が祀られております。
阿弥陀様に見守られてようやく静かに眠りにつけたような空気を感じ手を合わせると何故か涙が出てきます。
遊女にもランクが有り、宝暦年間までは「太夫(たゆう)」その後は「花魁(おいらん)」と呼ばれた方々が最高位です。
多くの方は花魁の呼び名の方が馴染みが有るかと思います。太夫や花魁まで上り詰めた遊女は、有志や楼の主人(雇い主)が個人のお墓を建立する事も有りました。
ここ浄閑寺にも「若紫」という花魁のお墓が有ります。
彼女は条件が良い多くの身請け話(注1)にも耳を貸さず、遊女になる前に恋仲になった青年と結ばれるはずだった年季明け(注2)の5日前、悲運に見舞われ亡くなってしまったのです。
とても愛されていた花魁だったので投込ではなく、お客様などの有志で個人のお墓が建立されたそうです。若紫さんは明治時代の方なので写真が残っています。
本当にお美しい。
可愛らしく知的な雰囲気に写真だけでもうっとりしてしまいます。
是非、検索してご覧下さい。
一見の価値有りです。永井荷風の「断腸亭日乗」にも登場しております。
寛永の三名妓(二代目)高尾太夫
そしてもう1人「高尾太夫」という有名な太夫。
この方のお墓も浅草にある「春慶院」というお寺に有ります。
この高尾太夫という名は、妓楼三浦屋(注3)の大名跡で様々な説が有りますが、11代続いたと言われております。特に有名なのが2代目高尾太夫。歌舞伎や日本舞踊の演目にもなっております。
5代目も有名で落語になっております。
5代目は商人と結婚し幸せになったと言われておりますが、2代目は仙台藩主に惨殺されたとも身請けされたとも言われており、沢山の説が有るので何が本当なのか分からないのですが、その説に伴い祀られている場所が何箇所か有ります。
1箇所目は東京都中央区に有る「高尾稲荷神社」
こちらは仙台藩主伊達綱宗の身請けになびかなかった為、惨殺されその遺体が北新堀河岸に流れ着きその地に庵を構えていた僧が手厚く葬り彼女の頭蓋骨が御神体として祀られている神社です。
2箇所目は浅草にある「春慶院」
こちらは先述の伊達綱宗の内命で建立されたとも、彼女を大事にしていた三浦屋の主人が建てたとも言われています。
そもそも2代目高尾太夫は湯治に訪れた三浦屋夫妻がその土地に居た少女に一目惚れし養女に貰い受けたのです。その後、明暦の大火で三浦屋が傾いた時、彼女自ら「家の再興のため遊女になる」と言い養父母の反対を押し切り太夫にまで上り詰めたのです。そんな大切な娘の為にお墓を建立したという説も有ります。
3箇所目と4箇所目は東京西巣鴨に有る西方寺と埼玉県坂戸市にある永源寺です。
こちらは四代将軍徳川家綱の御小姓をつとめた島田権三郎が建てたと言われております。島田権三郎と恋仲だった2代目高尾太夫。そこに先述の伊達綱宗が横恋慕をしてきた為、島田氏所領の坂戸市に太夫を匿ったが、病気で太夫が亡くなってしまい島田一族の菩提寺である永源寺に弔ったそうです。その後、権三郎は出家をし西方寺で菩提を弔う日々を送ったという伝説が有ります。
西方寺は現在西巣鴨に有りますが、元々は新吉原近くにあり昭和初期に西巣鴨に移転されたとの事。吉原近くに有ったお寺さんなので、こちらも投込寺の1つだったそうです。どこが本当なのか、はっきりした資料もないので分かりません。
少しスピリチュアルな感じになってしまいますが、永源寺のお墓の前に立たせて頂いた瞬間私はもの凄いオーラに包まれました。
「ここですよ」と言われている気持ちに!
しゃがんで手を合わせると、頭の中に何かが入ってくる感覚が有りました。
目の上の骨の辺りからメリッメリッと。
西方寺は、現在は非公開になっており伺う事は叶いませんでした。永源寺でこれだけ感じたのだから、もし同一人物が・・・というお話が本当でしたらこちらでも何かを感じる事ができたかもしれません。
永源寺は、高尾太夫のお墓の隣に島田一族の大きな墓所も有り、太夫が優しく守られているようにも感じました。こちらのお寺さん自体が、とても清々しい気持ちにさせてくれる佇まいでお参りさせて頂けて本当に良かったと心から感謝いたしました。
実は憧れの職業でも有った一面も
遊女で最高位になる為には美貌もさることながら知識も芸にも秀でていなければならず、今でいうスター的な存在でした。
当時女性の仕事と言えば小さい仕事のみで、このように華やかな存在になるというのは憧れも有ったようで花魁を引退した女性に話を聞きに来る少女達もいたようです。
それは斎藤真一さんがか書かれた「吉原炎上」という小説にも書かれています。この作品、名取裕子さん主演で映画化されました。
素晴らしい作品で私も大好きなのですが映画ゆえ派手な感じになっています。小説の方は淡々と、それでも吉原の情景が浮かんでくる作品で是非お読み頂けたらと思います。
斎藤真一さんの描かれた絵も素晴らしいです。
斎藤真一さんのお祖母様は元吉原の花魁で高名な方に身請され結婚されたという、その世界では幸せな人生を送られた方です。晩年は幸せと言っても、そもそもは家庭の事情で親に吉原に売られたのですから言葉としては間違えているかもしれません。
真実が語られているという点で、吉原の事がちゃんと分かる作品になっています。寺社の話よりすっかり「吉原」の話になってしまいましたが、現在の吉原が有った界隈にも「吉原神社」「吉原弁財天本宮」という吉原に関係深い神社が有ります。
吉原弁財天は関東大震災で亡くなられた遊女や同じく被害に遭われた方々を弔う為に建てられた観音像が有ります。
こんなに包み込まれるような表情の観音様を私は初めて見ました。
心静かに祈りを捧げさせて頂きました。
浄閑寺も吉原神社も吉原弁財天も誰一人知らない方々なのに、何か一本の糸で繋がっているような錯覚に陥ります。女性同士だからでしょうか?
彼女たちの苦しみや苦労は筆舌に尽くしがたい悲しみだったはずですが、吉原が流行の発信地だった事、文化人や政治家が多数出入りしており様々な事柄の舞台にもなった為、世に出る映画や舞台では豪華さや美しさ、男を手玉に取る知的なきっぷの良さなど、華やかな面が目に付きやすいです。
近年は、人気漫画の影響で再度注目されてもいます。表だけでなく裏の姿もきちんと伝わっていくと良いなぁと思います。
吉原に限らず、芸者さんや娼技さんがいた地域(花街)は弁財天が多いです。それは弁天様が芸能の神様だからです。ですので散歩をしていて「この辺りは弁天様が多いなぁ」と感じ調べてみると、かつては花街だったということが往々にして有ります。因みに芸者さんは「芸は売るけど身は売らない」と言われておりますのでお間違いなきように・・・ということで今回は締めたいと思います。
注1 身請け お客が遊女の身代金や借金を代わりに払い身を引かせ、妻にしたりお妾さんにする
注2 妓楼 遊女を置き客を取る家
注3 年季明け 遊女においては全ての借金が返し終わり自由になれる事